Rayeの日記

ドラクエ、ポケモン、音ゲー(BEMANI)など、好きなゲームのことを中心に適当に書いているブログです∩・ω・)∩

DDRの思い出

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2006年春、無事に大学に合格した僕は上京した。DDR SuperNOVAの稼動開始予定は7月だったのでもう目と鼻の先なのだが、SuperNOVAが稼動するまでの数ヶ月の間DDRを全くやらないわけはなかった。渋谷から2駅のところに引っ越したため、渋谷でDDR EXTREMEが稼動しているゲーセンを探したところ、幸いにも存在していたため、そこが僕の新しいホームとなった。今は無き渋谷会館である。

一番たくさん足を運んだのは渋谷会館だったが、他にEXTREMEのあったゲーセンだと、池袋BSGにも少しだけ行ったことを覚えている。このゲーセンはSuperNOVA以降も何かと縁がある思い出の場所である。EXTREMEの時は確かBSGのDDRは2台置いてあっただろうか(違ってたら申し訳ない)。また、DDR以外の音ゲーの設置台数がどれもこれも多く、東京の凄さに改めて驚愕した覚えがある。


SuperNOVA稼動までたった数ヶ月ではあったが、その期間にもDDRつながりでちらほら知り合いができた。渋谷会館にもコミュニケーションノートが置いてあったため、そこから始まる交流もあった。DDRで僕と知り合った人はほとんどSuperNOVA以降だと思うので、EXTREMEの頃の僕を知っている人は結構レアである。

ちなみに当時の僕は、親しくなっても相手の本名を知らないままハンドルネームで呼び合うというオタクの文化を本当に知らなかったので、何人かには相手の本名を素で尋ねた覚えがある(SuperNOVA稼動後もしばらくやってたと思う)。そのたびに怪訝な顔をされるのだが、大体みんな教えてくれた気がする。もし当時それで不愉快な思いをされた方がいたら申し訳ない。


大学入学後わりとすぐに授業をサボりがちになり渋谷会館に通う日々を送っていたが、あるとき渋谷会館にてDDRがめちゃくちゃ上手いプレイヤーを見かけた。それが僕とJun-Gさん(通称タンクさん)との出会いだった。タンクさんと親しくなったのはSuperNOVA稼動後だったと思うが、以後タンクさんにはたくさん構っていただき、タンクさん経由でDDRの知り合いもたくさん増え、それに比例するようにDDRのモチベーションも高くなっていったので、タンクさんとの出会いがなければ今の僕はないと言っても過言ではないのである。

渋谷会館で初めて見たタンクさんのプレイはとにかく上手かったので、やっぱ東京は違うなと思ったことを覚えている。タンクさんと僕以外にDDRをプレイする客はほとんどおらず、基本的に2人で交互にプレイしていた。その時タンクさんのプレイを見て気づいたのだが、タンクさんは特定のいくつかの曲を練習しているようだった。実は、近い内に都内近郊のゲーセンでDDRの大会が開催される予定があり、僕もたまたまネットで見かけてそのことを知っていた。タンクさんがプレイしていた曲の大半がその大会の課題曲だったため、僕は「この人はその大会に出る予定があり、その練習をしているんだろうな」と察したのだった。

それを知った途端、僕よりも上手い人が大会のために練習している貴重な時間を、僕がプレイすることで半分奪ってしまっていることが非常に申し訳なくなってきた。耐え兼ねた僕は、帰り際に「すみません、大会の練習の邪魔になりませんでしたか……?」と、タンクさんに声をかけてしまった。そんなこと言われたって言われたほうも反応に困ると思うのだが、その時の僕はそれを言わずにいられなかったのだった。その時のタンクさんの返事は「いえ、順番なんで……」という、まあそりゃそうなるよなという感じのものだった。これがタンクさんと僕の初めての会話である。

このことは後にタンクさんからもネタにされて、「昔のお前はあんなに腰が低かったのにな〜」といじられたりしたのであるが、僕はいつだってタンクさんへの感謝と尊敬の念を忘れたことはないのだ。


そして2006年7月、ついに待ちに待ったDDR SuperNOVAが稼動を開始した。ここから先は本当にたくさんの思い出があるのだが、元々このDDR思い出語りは、東京でDDRの知り合いがたくさんできる前の話をするために始めたものなので、ひとまずこの記事を最後に更新は終わろうと思う。SuperNOVA以降の話も読みたいという人もいるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

そもそもSuperNOVA以降の話なんて書き始めたら、これまでとは比べ物にならないくらい凄まじい分量になってしまう。2ndからEXTREMEまで約7年間の思い出を17回に渡って書いてきたが、プレイ回数だけ見ても、その7年間におけるアーケードDDRのトータルプレイ回数を、1年間のSuperNOVAだけで悠々と超えてしまっていると思う。ちなみにSuperNOVA及びSuperNOVA2のプレイ回数は、どちらも3400回ほどであった。

とはいえ、SuperNOVA以降の話を書くつもりが一切ないかというとそういうわけでもない。いつになるかはわからないが、そのうち気が向いたらまた続きを書くかもしれない。


最後に、このブログの古い記事はほとんど削除してしまっているのだが、SuperNOVA稼動日の日記SuperNOVAでONE MORE EXTRA STAGEを初めてクリアした時の日記のデータが残っていたので、特別に再公開することにする。


以上、ここまでお付き合いいただきありがとうございました∩・ω・)∩


終わり。
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DDR EXTREMEの思い出語りもいよいよ終盤に突入し、この記事では自分の高校2年(後半)〜高校3年頃の話をしていく。この時期になってくると、次第に大学受験の準備で忙しくなり、ゲームセンターにも足を運ばなくなっていった……ということは一切なく、普通に音ゲーを続けていた。とはいえ、EXTREME稼動開始から2年も経つと結構飽きてきており、この頃の自分はどちらかと言えばdrummaniaをメインにプレイしていたくらいだった。また、家庭用でDDR FESTIVALが発売されていたため、PS2のあるネットカフェでたまにプレイしていた。


プレイ回数はかなり減っていたDDRだったが、ちょっとずつ実力は向上していた。この時期に出したDDRのスコアでとても印象に残っているものが2つある。

1つはMAX 300の激譜面で初めてAAを出したことである。正直なところ発狂譜面に取り組むことには消極的ではあったのだが、それでもやはり「MAX 300でAA」というのは、DDRMAXの頃から抱いていた1つの大きな目標であり、また、発狂譜面に対する実力を示す1つの指標であるとも思っていたため、達成したときの喜びは大きかった。

もう1つは、激譜面で初めてPFCを出したことである。というか、当時の僕はアーケードでは楽譜面や踊譜面をほとんどプレイしていなかったため、アーケードでのPFC自体これが初めてであった。ちなみに達成したのはsyncの激譜面で、正直もっと簡単にPFC出るやつ他にあっただろと思うが、まあ当時は特にPFC狙いを頑張っていたわけではなく、たまたまPFCが出たという感じであった。初PFCについてはMAX 300 AA以上に嬉しくて、達成したときはゲーセン内の他の場所にいた友人をDDR筐体のところまで呼び寄せて、「見てこれ!! ヤバくない?! ヤバくない?!」と騒ぎ立てた覚えがある。


高校3年になると、生活環境も変わった。学校の方針で、3年生は全員寮を出て、学校周辺の下宿に住むことになっていたのだ。それにより、寮の規則から解放され、携帯電話を所持できるようになった(実際は寮でもこっそり持っていたが)。その結果、ここしばらくご無沙汰であった音ゲーの個人ファンサイト巡回をまたちょいちょいやるようになった。とはいえ当時のガラケーではPCサイトなどまともに見られないので、見ていたのは携帯サイトである。また、サイト巡回に伴い、やはりハンドルネームがないと不便だという判断に至り、「Raye」という名前を使い始めたのであった。

ちなみにこの「Raye」という名前、知っている人も多いと思うが、当時流行っていた漫画デスノートの登場人物であるレイ・ペンバー(Raye Penber)からまんまパクったものである(恥ずかしいので正直後悔している)。このハンドルネーム、人と被らないという点では優れていたが、初見で正しく読んでもらえないという致命的な欠点があった。それで今では苦肉の策として、Twitter IDの「rayeddr」から派生した「れいでであ」と名乗っているが、別に「Raye」という名前を捨てたつもりはなく、「れい(Raye)」が名前で「でであ」が苗字という感覚である(?)。音ゲーのカードネームには今でも「Raye」を使っている。

少し話が逸れたが、いろんな携帯サイトに顔を出し掲示板で交流していくうちに、自分もホームページが欲しくなってしまった。そして僕は、自分の携帯サイトを開設した。受験生なのに何をやっているのかという感じである。もちろんサイトの内容は、「プロフィール」「掲示板」「100の質問」「リンク」などが並んだ、昔のオタクが作りがちなカスみたいなものだ。そしてこの「Rayeの日記」という名のブログも、携帯サイトのコンテンツの1つとして誕生した。携帯サイトの運営も初めは楽しかったが、こんなカスみたいな内容では当然すぐに飽きが来てしまった。そして結局、1年もしないうちに閉鎖に到り、このブログだけが残ったのであった。

そんな携帯サイト時代だったが、当時サイト経由で知り合って、今なおつながりが残っている人も実は何人かいる。とてもありがたいことだと思う。


高校3年の冬頃、ビッグニュースが飛び込んできた。DDR SuperNOVAの発表である。当然、僕はかつてないほどに狂喜乱舞した。しかし、もし大学受験に失敗し、翌年度に浪人生なんかになってしまったら、せっかくのDDR新作を存分に楽しめない。そのため僕は、自室の壁に「受かればSuperNOVA」と書いた紙を貼り、毎日それを眺めて受験勉強の最後の追い込みをかけるのであった。今思えば、中学3年の冬〜大学1年の夏というEXTREMEの稼動期間は僕にとっては絶妙に都合が良くて、もしこれが1年でもズレていたら、正直僕はDDRにうつつを抜かしすぎて大学受験に失敗していたと思う。


高校卒業を間近に控えた頃、ゲーセン友達の一人が「キッズクラブのハゲ店長にみんなで感謝の寄せ書きを書こうぜ」と言ってきた。僕にとっては6年間も世話になった思い出のゲーセンなのであるが、その提案を聞いたときの僕は結構ドライで、「なんでそんなことしなきゃならないんだよ馬鹿か」と思っていた。しかし特に断る理由もなかったので、僕も寄せ書きに参加した。そして完成した寄せ書きはその言い出しっぺの友人によって店長に届けられたのだが、僕はその現場にいなかったので、店長がどういうリアクションをしたかは不明である。

そんなキッズクラブであるが、僕たちが卒業した後、わりとすぐに閉店してしまったという話を聞いた。こんなことなら僕も店長にもっとお礼を言っておくべきだったかもしれない。高校卒業以来、もう10年以上鹿児島には足を運んでいないが、もしまた行く機会があれば、ぜひキッズクラブの跡地を訪れたいと思う。

(追記)
冷静に思い返したら2014年に仕事で鹿児島に行っていて、そのときは仕事が終わった瞬間にホテルでノートパソコン広げてネトゲをやっており、キッズクラブの跡地なんて毛ほども興味なかった。


続く。


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最初の記事>DDRの思い出 1 ― 出会い編


ゲームセンターにはコミュニケーションノートというものが置いてあることがある。記念カキコ、チラ裏日記、攻略情報、イラストなど、ゲーセンに来た人が各々好き勝手書き込み、時にはお互いに顔を知らないプレイヤー同士の交流がノート上で始まる奇妙なあれである。最近はコミュニケーションノート自体をなかなか見かけなくなってしまったが、昔は結構どこのゲーセンに行っても置いてあった。それは僕がいつも通っていたキッズクラブやエジソン倶楽部も例外ではなく、僕もゲーセンに足を運ぶたびにコミュニケーションノートに目を通し、時には書き込みもしていたのであった。

当時のコミュニケーションノートにおいて特に目を引いたものの一つが、女性ポッパー(pop’n musicをやる人のこと)の書き込みである。可愛い字体で自分の近況やpop’nのプレイ記録を書き、時には長文で曲萌えやキャラ萌え語りをし、キャラのイラストを添えるのがだいたいお決まりのパターンであった。最近はもうそんなことないだろうが、当時女の子がプレイする音ゲーといえば8割方pop’n musicであり、ゲーセンで女の子の友達をつくりたければ、まずpop’n musicを始めるのが一番の近道であったと言っても過言ではなかった(個人の感想です)。


キッズクラブのコミュニケーションノートにおいても、書き込みをする女性ポッパーはちらほらいたのだが、その中でも特に頻繁に書き込みをしている人がいた。その人のことをここではAさんと呼ぶこととする。時期的には、DDR EXTREMEが稼動したあと、僕が高校1年〜2年の頃だったと思う。別にノート上で特に交流があったわけでもなかったが、Aさんもよくイラストを描いていたので書き込みが目に付きやすかったし、それで書き込み頻度も高いとなると、Aさんのことは自然に記憶していった。

さて、このコミュニケーションノートだが、通常であれば書き込み主の顔はわからないのだが、ちょうどノートに書き込んでいるところを目撃されてしまうと、当然ながら書き込み主を特定されてしまうこととなる。キッズクラブは客数自体が少なかったうえに、その少ない客の大半は周辺の学校の学生であり、学校帰りの平日夕方に来る人がほとんどであったため、ノートに書き込みをしている人にしばしば出くわし、意図せずして書き込み主を特定してしまうことがあった(ちなみに、キッズクラブの音ゲーは全てe-AMUSEMENT非対応だったため、カードネームから特定されることはなかった)。

そんな中、程なくしてAさんのことも特定してしまうのだったが、まあ周辺の学生であったことは予想通りだったのでいいとして、それに加え、Aさんの顔が思っていたよりもわりと可愛いということがわかってしまった(失礼な言い方をするな)。これを機に、僕はAさんのことが気になり始め、ノートでAさんに対してちょいちょいレスを付けるようになった。すると向こうも丁寧に返事をくれるので、それがまた嬉しかった。ちなみに僕は当時からpop’n musicもプレイしていたので、話のネタには困らなかった。また、DDR EXTREMEにはpop’n曲が収録されていたためか、普段ほとんどpop’nしかプレイしないAさんがDDRをプレイしていることがあった。僕はその姿を、他の音ゲーをプレイしながら曲選択中などにチラチラと見ていたのだった。

何度かノートでのやり取りを繰り返すうちに、向こうも僕のことを特定していたとは思うのだけど、それを決定づける出来事があった。ある日、Aさんと僕が同じ日の同じ時間帯に2人ともキッズクラブ内にいながら、ノート上だけで何往復も会話のやり取りをするというやつが行われたのだった。片方がノートに書き終えてから少し離れた場所に移動し、今度はそれを確認したもう片方がノートに書きに行くという、それの繰り返しであった。そんなの、今となってはこれを書いている本人も笑ってしまう話なのだが、男子校に通う陰キャだった当時の僕は、そのAさんとの一連のやり取りにときめいてしまい、いよいよAさんのことが好きになってしまうのであった。もうそこまで来たら普通に話しかけろやという感じなのだが、その時の自分にそこまでの勇気はなかった。ちなみにこのノート上のやり取りは、後日別の女性ポッパーからノート上でいじられていたのだが、それがまるで、幼馴染みの女の子との関係を友人から茶化される少年漫画の主人公のようでまた気分が良かった(馬鹿すぎる)。


そんな感じで日々浮かれていたのだが、ある日事件は起こった。Aさんがノート上に、「(キッズクラブ内で)めちゃくちゃカッコイイ人いた! どうしようすごいドキドキする!(ハートマーク)」的な内容のことを書いていたのだった。この発言は僕に致死量のダメージを与えた。まず、僕はAさんから認知されていたため、当然そのカッコイイ人というのは僕のことではないし、そんなことをノートに書く時点で、僕に対して大した感情もないという事実も顕在化してしまった。また、Aさんはチャラついた子ではないという幻想を僕は勝手に抱いていたため、そんなAさんが突然知らない他人の容姿についてパブリックなノートに書き連ねハシャいでいたのが、僕にはとてもショックだった(Aさんもいい迷惑である)。

その後も、ノート上でAさんがそのカッコイイ人とやらに言及することが何度もあり、僕はそのたびに悲しい気持ちになっていたのだが、そのAさんの書き込み内容や日時から、驚くべきことが判明した。どうもAさんの言うカッコイイ人とは、たびたび僕と一緒にキッズクラブへ足を運んでいた、僕と同じ学校の同学年の友人のようなのだ。ただでさえ致命傷を受けていたその時の自分にとって、この事実は僕の魂ごと消滅させるほどの破壊力があった。ちなみにその友人(Bくんと呼ぶこととする)は、中学の頃から僕と一緒によくゲーセンに足を運んでいた友人たちとは異なり、高校に入ってからわりと最近になって一緒にゲーセンに来るようになったやつだった。別に親しくないわけではなかったが、中学からの友人に比べると、僕の中では若干距離があると感じる程度の友人であった。

そのBくんだが、それがガチのイケメンならまだ良かったのだが、正直なところ「オタクにしてはマシ」くらいの顔だった(失礼なことを言うな)。中学からの仲の良い友人たちの中にもAさんのことを把握している者は何人かいたため、僕はそいつらと「なんでBが……?」「Aさんの趣味っていったい…?」という話をした(失礼なことを言うな)。ちなみに、Bくんのほうはそこまでノートを見てはいなかったので、AさんがBくんに対してそんなことを言っていることに気づいていないどころか、Aさんの存在も把握してはいなかったと思う。当然のように僕たちは、AさんのことはBくんには秘密にしておいた。


それから先のことはあまり覚えていない。僕はAさんへの興味がだんだん薄れていき、Bくんのことは普通に嫌いになった(Bくんもとんだとばっちりである)。キッズクラブのpop'nが古いバージョンのままだったからか、それとも単にpop'nに飽きたのか、まあ理由はわからないのだが、Aさんも次第にキッズクラブに現れなくなっていった気がする。そんなわけで僕の恋(?)は、Aさんと一度も会話をしないまま終わりを告げたのであった。


あれからもう15年ほど経ってしまったが、Aさんは今頃どうしているだろうか。今もまだ音ゲーに興味があるだろうか、それとも、音ゲーからはすっかり離れ、ヒプノシスマイクにハマったりしているだろうか。今後の人生でAさんと関わることはおそらくないだろうが、まあ元気でいてくれたら良いなと思う。

ちなみに、当時の僕は腐女子という概念を知らなかったが、Aさんは腐女子だったのだろうか。今となっては知る由もない。


続く。


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DDR EXTREME稼動開始から約3ヶ月後、僕は高校生となった。とはいっても、中高一貫校だったため、これまでと大して環境は変わらなく、ただ学年が上がっただけという感覚だった。変わったことと言えば、中学の寮では8人部屋で生活をしていたのだが、高校に入ってようやく個室(3畳)が与えられたことくらいだろうか。高校時代のDDRは3年間まるまるEXTREMEだったため、いつ頃の時期に何をやっていたかいまいち記憶があやふやなのだが、今回は概ね高校1年〜2年頃のことを書いていく。


高校時代は、学校最寄りのゲーセンであるキッズクラブで、自分と同じ学校の先輩方数名をよく見かけた。みなさん自分よりは学年が1つ上で、主に高校から入学してきた方々だった。音ゲーをやっている方も何人かいたため、次第にその先輩方と親しくなり、一緒に遊ぶ機会もできた。その中でも特に良くしていただいたのが、HIDEさんという方であった。HIDEさんはdrummaniaを主にプレイしていたが、たまにDDRをやることもあった。休日一緒にエジソン倶楽部に行くこともあったほか、高校在学中のみならず大学時代にも関東にてよく遊んでいただいた。もう長いこと会っていないうえに最近はTwitterでも見かけなくなったが、元気にしているだろうか。

DDR EXTREMEが稼動してからしばらくは近場のキッズクラブでばかりプレイしていたが、以前の記事でも触れたように、他の音ゲーの最新バージョンやメモリーカードを挿せるDDRを求めて、次第にエジソン倶楽部にもまた足を運ぶようになっていった。ちなみに、高校の寮でも相変わらずゲーム機などの所持は禁止されていたため、どうやってEDITデータを作っていたのかというと、ソフトだけこっそり所持していて、休日にPS2の置いてあるネットカフェまで足を運んでそこで作成していた。ネットカフェにて譜面の構想から始めると時間がかかりすぎるため、普段から自分で考えた譜面を紙に手描きで描きとめ、ネットカフェではそれの入力作業のみ行うという、涙ぐましい努力をしていた。


そんな中、エジソン倶楽部にてDDRがかなり上手いプレイヤーに出会うことがあった。自分よりもスコアの精度が遙かに高く、当時の自分ではまず敵わないという感じであった。それがヤマーさんという方だった。EXTREMEも稼動してからだいぶ経っていた頃であり、DDRをやる人自体がそもそも少なかったというのもあるのだが、エジソン倶楽部でたびたびお目にかかるので、次第に会話を交わすようになった。これが、いわゆるスコアラー界隈の人との最初の出会いであった(最近はそうでもないと思うのだが、昔はDDR界隈自体が狭かったこともあってか、スコアラーとそうじゃない人とで結構隔たりがあった気がする)。

ヤマーさんは元々大分県の人で、当時は大学の関係で鹿児島に来ていた。大分や福岡の上手いプレイヤーの話をヤマーさんから聞いたりもした。足9でも難しいほうの譜面で簡単にPFC(当時のAAA)を出してしまうような人がいるという話を、そのプレイヤーの具体名込みで聞くのだけど、当時の自分にはまだあまり実感の湧かない世界であった。

こうしてヤマーさんとは、たびたびエジソン倶楽部にて話をしたり一緒にプレイしたりすることとなった。DDR EXTREMEを一通りやり尽くしすでに若干飽き気味で、いつもなあなあプレイになっていたその時の自分にとって、自分よりも上手いヤマーさんの存在はかなり刺激になった。通常モードではPERFECTを、NONSTOPや鬼モードではMARVELOUSを、今まで以上にしっかりと意識して狙うようになっていった。その甲斐あってか、DDR SuperNOVAが稼動する頃あたりまでには、スコアラーの端くれと言える程度には力が付いたのではないかと思う。

最近はSNSや動画サイトの普及により、音ゲー上級者と交流したり上手いプレイを見たりすることはかなり気軽にできるようになってきたが、やはり実際に上手いプレイヤーと日々接し、そのプレイを生で見ることから得られる刺激は、ネット越しのそれとは比較にならないものがあった。特にモチベーションの維持・向上への影響が大きいと思う。ヤマーさんとの出会いももちろんそうだが、特にDDR SuperNOVA以降は、関東で日々多くの上手いプレイヤーと接することができ、それはとても恵まれた環境であった。もし自分がSuperNOVA以降も宮崎か鹿児島に残っていたとしたら、きっとそんなに上手くはならなかっただろうと思う。


話が少し逸れてしまったので、EXTREMEの話に戻したいのだが、EDIT以外でこの時期に具体的に何をプレイしてどのくらいのスコアを出していたかというと、正直ほとんど覚えていない。覚えていることと言えば、鬼モードでNAOKI neo-standardコースのスコアアタックをちょいちょいやっていたことくらいだろうか。当時のDDRのクリアランクはAAの上がPFCであり、現在のAAAに相当するものがなかった。そのため、AAは量産できるようになったもののPFCはまだ夢物語だったくらいの頃は、目標も成果も見えにくい時期だったのかもしれない。


続く。


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僕のDDRの思い出を語る際に外せない存在の一つがBeForUである。BeForUはDDR 5thMIXのときに一般からのオーディションにより結成された4名の女性ボーカルユニットであるが、僕は結成時からかなり応援していた。当時の僕は中学2年生で、モーニング娘。などを好んで聴いていたお年頃であり、DDRにもそういったアイドル的な(と言うと語弊があるが)ユニットが登場したことに関しては「いいやんけ」という感想を抱いた。BeForUは活動途中にメンバーの入れ替えなどもあったが、メジャーデビューするくらいの時期までは、BeForU関係のCDはほぼ全て購入していた。

BeForUはメンバー自体が好きだったことにくわえ、そもそも作曲がほとんどNAOKIだったため、NAOKI曲が好きだった自分にとってはBeForU曲も最高であった。5thMIXに収録されたデビュー曲であるDIVEと、その次のDDRMAXに収録されたFireflyは、どちらも曲・譜面ともにすごく好きなのだが、残念ながらそのどちらも現行のDDRにおいては削除されてしまっている。他に好きなのはKI・SE・KIあたりだろうか(これも削除されているが……)。

BeForUの中でも特に好きだった(というか今でも好きだが)メンバーが、Noriaである。何が好きだったかって、まあ見た目も声もめちゃくちゃ可愛かったからだ。どのくらい好きだったかというと、デビュー曲のDIVEの時期からNoria宛てにファンメールを何度か送ったことがあるくらいだ。


BeForUはDDR以外にも活動の幅を広げ、時にはソロでの曲もリリースされたりするのだが、その中でも特に衝撃的な曲があった。それがbeatmaniaIIDX 9th styleに収録された、Silvia Driveである。この曲はdj TAKA作曲のNoriaソロ曲であり、曲の良さもさることながら、一番の衝撃は終始Noriaが実写で登場するムービーであった。まあ今見ると少し地味なムービーなのだけど、Noriaが好きだった当時の思春期の僕にとって、そのNoriaの可愛さには凄まじい破壊力があった。ゲーセンでIIDXをプレイするときは必ずと言っていいほどこの曲を選曲した。さらに、当時IIDXのムービー集がDVDとして発売されたので、僕は迷わずそれを購入し、ニヤニヤしながら何度も何度もそれを鑑賞したのであった。

また、これもSilvia Driveのムービーにニヤニヤしていた頃とそう離れていない時期だったと思うが、アーケード版DDR EXTREMEが稼動を開始してから1年弱経った頃、家庭用DDR EXTREMEと、DDR Party Collection(ベスト盤的位置づけの家庭用DDR)が立て続けに発売された。その時期に、公式サイト上で、アーティストのサイン入り生写真プレゼント企画とやらをやっていた。全部で9名のアーティストの写真がそれぞれ1名様に当たるという企画で、僕はNoriaの写真に応募したのだったが、なんとなんとそれが当選してしまったのだ。これはほんっとうに嬉しかった。15年経った今でも大事に保管してあるので、その写真を以下に掲載する。

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(※画像クリックで拡大できます)


ちなみに、ここから少しずつ話は逸れていくのだが、このプレゼント企画の当選者発表ページは現在も残っていて、ここに載っている「一葵」という名前の当選者がまさしく僕である。DDR EXTREMEの稼動開始から1年近く経った当時、僕はようやく自分のハンドルネームというものを模索し始めていた。そして最初に付けたハンドルネームがこの「一葵」なのである。昔の自分のハンドルネームの話をするというのは、黒歴史を掘り返すようで言ってる本人はめちゃくちゃ恥ずかしいのだが、面白いので話すことにする。

この「一葵」という名前だが、「イッキ」と読ませるつもりで設定した。由来は、当時週刊少年マガジンで連載されていた漫画「エア・ギア」の主人公のニックネームそのままである。漫画のキャラの名前をそのまま付けるという安直かつ恥ずかしい名付け方は、今に始まったことではなかったのだ。なお、余談ではあるが、「エア・ギア」の作者である大暮維人先生は、県どころか市まで僕と出身地が同じである。地元の小さい古本屋で大暮維人先生のサイン色紙を見かけたこともあった。まあそういった縁もあって、「エア・ギア」から名前を引っ張ってこようと思ったところもあったと思う。

次にこの「一葵」という漢字だが、察しの良い人なら気づいているかもしれないが、これは僕が大好きだった「elemental-6C」のきりくさん(@ele6c)が、当時は「葵六」という漢字を当てていたため、それをパク……リスペクトしたものである。

この「一葵」というハンドルネーム、しばらくは気に入っていたのだが、次第に使わなくなっていった。その理由には、まず、「イッキ」という響きがあまりしっくりこなかったというのと、きりくさんからのパク……インスパイアが強すぎたというのがあった。また、一番の大きな理由は、当時自分の周りの友人たちは誰もハンドルネームなんて名乗っていなかったため、突然僕だけ自分で考えたハンドルネームを使い始めるのが恥ずかしかったというものであった。そういうわけで、せっかく考えた自分のハンドルネームは一度うやむやになってしまった。「Raye」という名前を名乗り始めるのはもう少し先のことである。


最後に、話をBeForUに戻すと、上京後すでにDDR SuperNOVAが稼動している時期だったと思うが、都内で開催されたBeForUのミニライブに足を運んだことがあった。ライブが良かったのもさることながら、ライブ終了後に会場を出る際、メンバー全員が出口付近で見送ってくれるという仕様だったため、めちゃくちゃ間近でNoriaを見ることができ、本当に舞い上がってしまった。それで僕は思わず「握手してください」と頼んだのだが、隣にいたスタッフに「握手はダメです」と言われたことを覚えている。


以上、こうして思い返すと、本当にBeForUが好きだったんだなあというか、特にNoriaへの思いが自分でも引くくらい強かったなと感じる。結局BeForUはなんかよくわからんまま音ゲーから離れていってしまったが、最近また、りゆやNoriaの活躍をちらほら耳にするので嬉しく思う。これからも陰ながら応援していきたい。


続く。


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DDR EXTREMEにおいても、EXTRA STAGEは健在であった。本作のEXTRA専用楽曲であるThe legend of MAXは、前作のMAXX UNLIMITEDに比べると、bpmが333と速く、その分譜面はあまりクセのないものであったが、例によってEXTRA STAGEでのクリアは当時の自分には不可能であった。

そしてEXTRA STAGEにてThe legend of MAXをAAランクでクリアすると、ONE MORE EXTRA STAGEが出現する。その楽曲が、Dance Dance Revolutionである。この楽曲は、DDR 2ndMIXのタイトル曲をベースに作られ、PAULA TERRYを初めとするDDR ALL STARSによるボーカルがあてられ、譜面(鬼譜面)は歴代の名曲の譜面のつなぎ合わせで構成され、ゲームのタイトルそのものが曲名になっているという、まさにエモエモのエモなのであるが、例によってONE MORE EXTRA STAGEでのプレイは叶わなかったため、当時そのエモさをフルに味わえなかったことが心残りである。


次に版権曲の話に移る。EXTREMEで新たに追加された版権曲は全部で8曲とやや少なめであったが、本作も良いものが揃っていた。好きでよく選曲していたのはSENORITAあたりだろうか。

版権曲の中でひときわ存在感のあった曲が、CARTOON HEROESであった。この曲の激譜面は、足9ではあったものの、足9としてはかなり難しかった。譜面にやり応えがあり、曲も好きだったため、これもよく選曲していた。また、この曲で初めて270度捻りを覚えた。たぶん今だったらそんな踏み方はせずにスライドで拾うと思うが、当時の自分は結構交互踏みにこだわるところがあった。今でも「全交互で拾うのは美しい」という気持ち自体はある。


復活曲の話もしておきたい。EXTREMEでは過去の人気版権曲が14曲も復活した。新規の版権曲が少なかったのはこの影響もあろう。これはめちゃくちゃ嬉しい復活だった。また、一部の曲には鬼譜面が追加された。その中でも特にBUTTERFLYの鬼譜面が最高で、ハチャメチャにプレイしまくった。なお、DDR EXTREMEの公式サイトにて譜面製作者からのコメントが掲載されており、「BUTTERFLYの鬼譜面は譜面製作に疲れた際に息抜きで作った」とのこと。何を言っているのか分からないが、作ってくれてありがとうございました。

少し話は逸れるが、DDR EXTREMEの稼動前後は、公式サイトにおいてスタッフからのコラムがやたら充実していた。このへんとかこのへんとか。読んだことある人でもない人でも、今読んでも結構面白いと思う。

EXTREMEではCLUB ver.の曲も11曲復活した。CLUB ver.とは2nd MIXの頃にbeatmaniaIIDXとセッションプレイが可能だったバージョンあるが、僕はCLUB ver.をプレイしたことがなかったため、初めて目にする曲も多かった。その中でもR3を妙に気に入っており、頻繁にプレイしていた。


EXTREMEでも鬼モードは健在であった。また、鬼モードとは別に、ライフ制ではなく通常のゲージでプレイするNONSTOPモードも実装された(復活した)。EXTREMEでは、NONSTOPモードと鬼モード限定で、PERFECTの上であるMARVELOUS判定が実装された。上級者はほとんどPERFECTで踏んでしまうため差がつかないという理由から実装されたそうだが、当時の自分にはそこまでの実力がなかったため、「それ、要る?!」という感じだった。ちょいちょいインターネットを見ていたため、そのくらい上手い人たちの世界があるというのは何となく知ってきてはいたのだが、実際にそういう人たちを見たことがなかったため、まだいまいち実感がなかった。

また、EXTREMEでは、隠し曲が通常モードより先にNONSTOPモードや鬼モードでのみ解禁されるという仕様だったため、必然的にそれらに挑戦する機会も増えた。5曲程度ぶっ続けで踏むコースの後半に初見の譜面を数ミス以内で踏み切るというのはなかなか大変だった(というか初見で抜けたことはほぼなかった)のだけど、それだけクリアしたときの喜びも大きかった。

なお、そこそこ実力が付いてきたためか、それまでは自分にとって無縁だったインターネットランキングというものにも興味を持ち始めた。いくつかのコースでランキングに登録し、その記録は今もDDR EXTREMEの公式サイトに残っているので、暇な人は探してみてもいいかもしれない。ちなみに、きりくさんのサイトの掲示板に書き込みをしていた頃と同様、ハンドルネームというものを作らず、本名で登録しているのであった。


DDR EXTREME自体についての話は概ねこんなところであろうか。3回にも渡り記事を書き、だいぶ長くなってしまったが、それだけの大作だったのである。しかしこれで僕の思い出話が終わるわけではない。みなさん知ってのとおりこのゲームは3年半もの長い期間稼動したため、僕の高校時代の3年間はまるまるDDR EXTREMEであった。当然その期間、DDRにまつわる思い出は色々あるため、次回からはそのへんについて思いつく限り書いていこうと思う。


続く。


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前回移植曲の話をしたので、今回は移植曲以外の新曲について話をしていく。

まずはコナミオリジナル曲だ。と言ってもこれは全部NAOKI曲なのだが、前回の記事でも述べたとおりNAOKIだけで11曲(+3曲)作っていた。これは本当に凄いことだなと今でも思うし、流石は音ゲー界の神といったところか。

EXTREMEのNAOKI曲は、どれもこれもがまさに集大成という感じで素晴らしかったが、だからこそ今作で本当に終わるんだなという実感が強くなってしまう寂しい面もあり、言うなれば非常に「エモい」ものであった。NAOKI曲について1つ1つ触れると長くなってしまうのでどうしようか迷ったが、ここを語らないで何を語るんだという気もするので、語ることにする。あまり面白くはないかもしれないが、まあ当時を知っている人は僕と一緒に思い出に浸っていただき、知らない人はこれを機に知っていただければと思う。


1998はBRILLIANT 2Uから続くNAOKIの王道RAVEである。背景絵のロボット犬もB2Uを意識したものだろう。曲名は初代DDRの稼動年である。当然この手の曲は好きなのでよくプレイしていたが、難易度抑えめな譜面に当時から若干物足りなさも感じていた。今からでも鬼譜面が追加されたら嬉しいかもしれない。

HYPER EUROBEATはCAN'T STOP FALLIN' IN LOVEから始まり定番となった、PAULA TERRYをボーカルに据えたユーロビート楽曲である(この曲の場合、厳密にはDDR ALL STARSであるが)。この曲は激譜面にややクセがあったため、稼動当初は実はあまり好んでいなかったのだが、実力が付くにつれこの譜面も踏めば踏むほど味が出てきて、最終的にはお気に入りの1曲となった。

BeForU楽曲はGRADUATION、LOVE SHINE、TEARSの3曲が収録となった。当時はどのゲーセンに行ってもLOVE SHINEが人気だったのを覚えている。BeForUについてはあまり話をしてこなかったが、DIVEの頃からずっと好きで応援していた。いずれ別の記事でBeForUの話をまとめて色々しようと思う。


NAOKI新曲の中でひときわ異彩を放っていたのがbagである。3rdから皆勤賞だったRevenG名義楽曲であるが、bagはbpm65という遅さの曲に24分矢印主体の譜面が密に詰め込まれており、難易度設定は当時最高の足10だった(厳密には10禁もあったが)。この足10というのは等速でのプレイを基準に付けられているものだろうと思われたため、僕も等速での攻略にいそしむのであった。最終的には、EXTREME稼動期間中にフルコンくらいまではいけたと思う。なお、当時のDDRの三連符は64分矢印を使って擬似的に作ったものであり、正確な三連符ではなかったため、bagの激譜面(現在は鬼譜面として同じ譜面がプレイできる)でスコアを詰めるのは容易ではなかったのだが、そのズレを僕がしっかり意識するようになるのはSuperNOVA以降の話であり、当時は気にも留めていなかった。

TRIP MACHINE survivorは、4thMIXのTRIP MACHINE CLIMAX以来となるTRIP MACHINEシリーズの新作である。稼動当初はFINAL STAGEの1つ前のステージから選曲できるという仕様であった。TRIP MACHINEの復活は嬉しく、僕もわりとよく好んで選曲していたが、この曲については、「低速で始まるうえにどっちの足から入れば良いか毎回わからなくなる1歩目が嫌」という思い出が根強く残っている。今でさえ、1歩目のことを考えると少し選曲を躊躇ってしまう。まあTRIP MACHINEといえばトリッキーなボス曲の代表みたいなところがあったため、プレイヤー側にそのように思われるということは、譜面製作者側としては「してやったり」という感じだろうか。


PARANOIA survivorは、5thMIXのPARANOiA ETERNAL以来となるPARANOiAシリーズの新作である。NAOKI作のものに限って言えば、3rdMIXのPARANOiA Rebirth以来となる。稼動当初はFINAL STAGEから選曲できるという仕様であった。PARANOiAが復活するというだけでも嬉しかったが、DDRMAX以降の難易度インフレに食らいつくかのごとく、bpmを270に上げ、難易度も足10として生まれ変わったその姿は、まさに王の帰還という印象であった。

それだけでも十分なインパクトがあったが、PARANOIA survivorにはさらにその上があった。それがPARANOIA survivor MAXである。条件を満たすことで、FINAL STAGEのPARANOIA survivorの代わりに出現するという仕様だった。その条件とは、1st STAGEからFINAL STAGEの1つ前のステージまで、Rebirth以前のPARANOiAを新しいほうから順番にプレイしていき、その全てをAAランクでクリアするというものだった。この条件は、当時の僕でも達成不可能なものではなかったが、そんなに安定はしていなかったうえに、そもそも通常のPARANOIA survivorの時点で結構しんどかったので、あまり積極的に挑戦はしていなかったと思う。

これがPARANOiA survivorの真の姿か……と思いきや、ここからさらにもう一段階上が隠されていた。みなさんおなじみPARANOIA survivor MAXの鬼譜面、通称「鬼鯖」である。この譜面はDDR EXTREMEにおいてもっとも難しい譜面であった。MAX 300から始まったMAXシリーズも好きではあったが、やはりDDRのボスといえばPARANOiAのイメージが強かったため、最後にPARANOiAが威厳を示す様は感慨深いものがあった。

しかし実際にプレイするとなると、それはもう本当に大変であった。通常のゲージですらなかなかクリアが見えなかったのだ。体力的にめちゃくちゃしんどかったうえに、特に終盤の滝の配置が絶妙で、譜面サイトを見て結構予習したつもりでも、実際にプレイしてみると途中でわからなくなって綺麗に踏みきることができなかった。その配置に慣れるため、家庭用DDRのEDIT機能を使い、bpmがPARANOIA survivor MAXの約3分の2であるHealing Vision 〜Angelic mix〜に同じ配置をぶち込んで練習したりもしていた。初挑戦からどれくらいかかったか記憶は定かではないが、初めてクリアしたときはめちゃくちゃ嬉しかったことを覚えている。


全然書ききらなかったので、次回も引き続きEXTREMEの話をしていく。


続く。


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2002年12月24日、僕が中学3年生だった頃のクリスマスイヴに、満を持してDDR EXTREMEが稼動するのだったが、ここで奇跡が起きた。なんと、ずっと3rd PLUSのままだったキッズクラブがEXTREMEを入荷したのだった。店長曰く、「これが最終作だと聞いたので入れた」とのことだった。決定的な理由はそれだったのかもしれないが、新作を入れてほしいという度重なる僕の懇願も無駄ではなかったのかもしれない。僕は店長からの思いがけないクリスマスプレゼントに感謝した。

余談だが、キッズクラブの店長はハゲていたので、陰で僕たちは店長のことを「ハゲ」と呼んでいた。子供は残酷である。


EXTREME稼動後、僕は毎日のようにキッズクラブに通った。そのためエジソン倶楽部へはしばらく行かなくなるのだが、キッズクラブはDDR以外の音ゲーが旧バージョンだったことと、DDRにメモリーカードを挿せなかった(当時のDDRはPlay Stationのメモリーカードにスコアを保存したり、家庭用で作成したEDITデータをメモリーカード経由でプレイしたりしていた)ということがあり、後にエジソン倶楽部にもまたぼちぼち足を運ぶことになるのだった。

3rd PLUSの頃も、僕以外にもDDRをプレイする友人は何人かいた(といっても低難易度を軽く嗜む程度だった)のだが、キッズクラブにEXTREMEが入ったことで、それ以降DDRをプレイする友人も少しずつ増えてきた。そういう意味でも、キッズクラブにEXTREMEが入った影響は大きかった。

次に、長期休暇で実家に帰省しているときのプレイ環境だが、EXTREMEのときは、MAX2を踏んでいたゲーセンからさらに遠い、実家のある市から電車で1時間以上かかる宮崎市内のゲーセンでよくプレイしていた覚えがある。記憶が曖昧なのだが、MAX2をプレイしていたゲーセンでEXTREMEをプレイした覚えがまるでないので、おそらくそのゲーセンにはEXTREMEの入荷がなかったんじゃないかと思う。宮崎市内まで行くとなると、電車では往復2,500円もかかってしまうのが当時の自分にはかなりきつかったし、その距離では親も以前ほどは車を出してくれなかったと思うが、なんだかんだ言いながら宮崎市まで行ってプレイした記憶がそこそこある。


さて、本題のDDR EXTREMEそのものについてだが、まさに集大成と言って差し支えない素晴らしいバージョンであった。みんな各々好きなバージョンがあるだろうが、総合的な完成度でいえば、やはりEXTREMEがダントツという印象である。あまりにも良かったので、稼動当初は「もう新作出なくてもこれだけで一生遊べるじゃん!」と思ったものだった(残念ながら実際はだんだん飽きてくるのだが)。

まず最初に挙げたいのが、新曲の多さだ。新曲とは言っても、EXTREMEもほぼNAOKI一人で曲を作る体制は変わらなかったので、純粋な新曲の数には限界があった(それでもNAOKI一人で11曲(海外版DDRからの移植も含めると14曲)も提供していたのは凄まじかったが)。では何が多かったのかというと、移植曲である。これまでもDDRには他機種からの曲が移植されてきたが、毎回そこまで数は多くなかった。だがEXTREMEは移植曲だけで38曲あり、しかもこれまでは大半がbeatmaniaからの移植だったのが、今回はギタドラやポップンを始めとするBEMANIシリーズを手広くカバーし、そのどれもこれもが人気曲という、まさに大盤振る舞いであった。

移植曲で何をよくプレイしてたかなあと考えたときに、最初に思いつくのはColorsだ。元々曲が好きだったのもさることながら、足慣らしにちょうどよかった激譜面と、わりとやりごたえのあった鬼譜面の両方とも好きだった。また、DDR用に編集されたこのfor EXTREMEというバージョンだが、正直IIDXに収録されているものよりもこっちのほうが綺麗にまとまっていて好きだった。また、前作でよくプレイしていた版権曲のSTAYが1作で削除されてしまった悲しみを埋めるため、曲も譜面も系統が似ていたColorsをプレイしがちだったというのもある。

他には、Kiss me all night longやKISS KISS KISSをよくプレイしていた。まあ移植と言ってもこの2曲はNAOKI曲なのだが、僕はEXTREMEでプレイするまでこの2曲のことを知らなかったので、僕にとっては実質新曲みたいなものだった。ちなみに、この2曲はDanceManiaXからの移植だが、DanceManiaXのプレイ経験自体は何度かあった。

その他、好きだった移植曲を思いつく限り挙げると、蒼い衝動、Destiny lovers、Last Message、Pink Rose、LOVE2シュガ→あたりだろうか。まあ僕の好きな曲はわかりやすいので、わざわざ挙げるまでもないかもしれない。

他機種からあまりにもあれやこれやと節操なく移植するのも如何なものかという気持ちも正直完全にゼロだったわけではないのだが、やはり自分が好きな曲をたくさんプレイできるのは嬉しかったし、なにより、普段キッズクラブで他の音ゲーしかやってなかった人たちが移植曲をきっかけにDDRにも手を出す姿をたくさん見たので、移植曲を増やしてくれてありがとうという気持ちが強かったと思う。


いい文字数になってきたので今回の記事はここまでとし、次の記事でも引き続きEXTREMEについて話をしていく。


続く。


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2002年の夏か秋頃だっただろうか、DDR EXTREMEの発表があった。beatmania THE FINALのように最終作とはっきり銘打っていたわけではなかったが、これにて一旦制作は打ち切られるということで、当時の僕はかなりショックを受けた。だがその分、EXTREMEはこれまでにない大作になりそうな気配があり、稼動前からだいぶ心を躍らせていた。

DDR EXTREMEの情報を得るために利用していたものの一つに、アルカディアという雑誌があった。知っている人も多いと思うが、アーケードゲーム専門の月刊情報誌である。アルカディアは、当時キッズクラブにもエジソン倶楽部にも置いてあり、いつでも自由に読むことができたため、基本的には自分で購入することはなかったが、DDR EXTREMEに関する記事が載っている号は全て購入したことをよく覚えている。


それで、ここからは話がDDRからは大きく逸れるのだが、当時アルカディアでは、一般の(?)若い女オタク数名が、毎月ひとつのテーマに関してアーケードゲームトークをするという、今の自分からすれば正直「くっさ」と言いたくなるようなコーナーが連載されていた。しかし当時の自分はこのコーナーがめちゃくちゃ好きだったのだ。

何が良かったかというと、とにかくそのコーナーに出ている女オタクが基本的にみんな可愛かった、それに尽きた。女オタクは全員写真が掲載されていて、まあ写真といってもモノクロで初代プリント倶楽部程度のサイズしかなかったのだが、少なくともその画像を見る限りでは顔が良かった。思春期であるにも関わらず男子校の中学に通い、同年代の女子との接点自体が皆無に近かった当時の自分にとって、自分と同じようにアーケードゲームが趣味でさらに顔も良い女たちがトークをしている様は、もうそれだけで「最高」だった。大人になった今の自分であれば、こういう女は基本的には地雷であるということがわかるのだが(失礼すぎる)、当時の自分は「こういう彼女がほしいなあ」と思いながら読んでいた。

ちなみに、このコーナーは毎回いろいろなアーケードゲームをテーマに語るため、彼女たちは格ゲーなども含めた様々なゲームに関する知識があった。ポップンミュージックが好きなだけの女オタクなら当時からこの世にたくさん存在していただろうが、あらゆるアーケードゲームをかじっている女オタクとなるとかなりの希少種だ。「それなのに全員顔が良いということがあり得るか? このコーナー自体がすべて嘘松だったという可能性すらあるのではないか?」と、今の僕は疑心暗鬼になってしまうのだが、当時の僕がそんなことを考えるはずもなかった。


また、このコーナーを読んでいると驚くべきことに気づいた。なんと、そのトークに参加している女オタクのうちの一人が、一人称として「僕」を使用していたのだった。

僕女という存在を初めて知ったのは、さらに時は遡り、僕が小学生の頃だった。そのきっかけとなった僕女とは、当時購入したニンテンドウ64用ソフト「ぷよぷよSUN」の主人公、アルル・ナジャである。どう見ても女の子にしか見えないアルルが自分のことを「僕」と呼んでいるのを見たとき、僕の脳は盛大にバグった。「僕」という一人称は男しか使わないものであると思っていたため、「こんな見た目でありながらまさか男だったりするのか? そんなわけあるか?」と混乱した。アルルは一人称「僕」を使用する女であるということがわかったのは、これよりも少し先の話となった。


二次元の僕女に対してですらこの有り様だったため、三次元で僕女に初遭遇したときの衝撃たるや、それは凄まじいものだった。「こんなに可愛いのにまさか男なのか?」と、当時の僕は事態をすぐに理解することができなかった。しかしなんとか気を確かに持ち、コーナーの趣旨やトークの内容等から考え、一人称が「僕」ではあるが女であろうと結論づけた。

このように初めは面食らったものの、僕は次第にその僕女を気に入っていった。なぜなら、この僕女が一番顔が良かったからだ。アーケードゲーマーであるうえにさらに一人称が「僕」となると、それはもう完全に見えている地雷なのだが(失礼すぎる)、もし当時この僕女が突然僕の目の前に現れたら、僕は一瞬で恋に落ちていたと思う。


しかしこの最高のコーナーも、程なくして突如打ち切りとなってしまい、僕の青春も幕を閉じた。そして、僕と同じくそのコーナーを愛読していた友人とともに、「アルカディアはクソ!」という話で盛り上がったのだった。

ちなみにこのコーナーでは、DDR EXTREMEが稼動した時期に、DDRをテーマにトークする回があった。どんな話をしていたかはほとんど覚えていないのだが、概ね2ndMIX前後の思い出話をしていたような気がする。他には「DDRやってるとふくらはぎあたりにDDR筋が付くよ」みたいな話をしていたのを覚えている。まあ正直、トークの内容自体はどうでもよかった。


とまあ色々と思い出のあるアルカディアなのだが、今もこの雑誌は刊行されているのだろうかと思い調べたところ、2015年に定期刊行は終了しているらしい。出版もアーケードゲームも下火のご時世、避けられなかった運命なのかもしれないが、好きだったものがなくなるのはやはり寂しいものだ。今や情報はなんでもネットですぐ手に入ってしまうが、紙の月刊誌でしか得られないワクワクが、当時確かに存在していたのだった(いい感じに締めたつもり)。


続く。


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DDRMAX2についても、前作同様に語るべきことが結構たくさんある。それはMAX2もまた色々盛りだくさんで楽しいゲームであったということに加え、MAX2あたりから自分の実力も結構付いてきたことにより、譜面やシステム等について以前よりも突っ込んだ感想を抱けるようになってきたというのもあると思う。

MAX2はDDRの中でもかなり好きなバージョンである。まず全体の雰囲気が好きだ。ゲーム画面が全体的に明るくフレッシュだったMAXとは異なり、MAX2はダークな感じになったのだが、それがとても格好良く見えた。収録曲も、ポップで明るめの曲が多めだったMAXに比べると、MAX2は全体的にやや暗めというか、渋い印象だったが、それがまたMAX2の雰囲気にマッチしていた。譜面についても、全体的にパワーで殴りかかってきていたMAXに比べると、MAX2の場合はMAXX UNLIMITEDを筆頭にトリッキーなものが多かった。他にも、ダークな雰囲気にマッチしたシステムBGMだったり、新たに実装された上級者向けの鬼モードだったり、とにかくMAX2全体の醸し出す空気が好きだった。


MAX2の話をするにあたり外せないのは、革命という楽曲である。最近のプレイヤーは知らないかも知れないが、DDRMAX2と IIDX 7thは全く同じ日に稼動を開始し、その両方のゲームのONE MORE EXTRA STAGE楽曲として、DDRのNAOKIとIIDXのTAKAの合作曲である革命を同時に実装するという、両方のゲームをやっていた人にとっては激アツな、まさに革命的なことをやっていた。自分も当時IIDXはちょいちょい触っていたのでこの仕様にはめちゃくちゃテンションが上がったが、例によってONE MORE EXTRA STAGE到達など夢のまた夢であり、残念ながら解禁まではお預けを食らうこととなった。


また、MAX2で新たに実装された鬼モードにも触れておきたい。このモードはゲージがライフ制になったNONSTOPモードで、さらにオプション設定不可というおまけ付きだった。だいぶクリア力が付いてきたとはいえ、ほとんどミスなく踏まないと完走できない鬼モードはまだ自分には少しハードなものではあったが、鬼モードでしかプレイできない楽曲が多々あったため、挑戦意欲を掻き立てられた。結果として、鬼モードのおかげで今まで以上にフルコンボを意識するようになり、実力の向上につながったと思う。ちなみに鬼モード専用楽曲の譜面には、おそらく意図的に曲のリズムからズラしたと思われるような配置が随所に見られ、絶対にコンボを切ってやるぞという製作者の意図が垣間見えた。


通常モードの新曲については、コナミオリジナル楽曲だとD2R、DESTINY、Sweet Sweet Love Magicあたりを特に好んでプレイしていた。ちなみにこの時、junはDDR初参戦だったが、ほとんどNAOKIだけで曲を作っていた当時のDDRにおいて、良い曲を作る新しい人が参入してくるのはうれしかった(NAOKIの作る曲は好きなものばっかりだったので、別にNAOKIだけという状況に特別不満があったわけではないが)。版権曲だと、特にSTAY、WAKA LAKAあたりが曲も譜面も気に入っていた。また、譜面停止が特徴的なTHE WHISTLE SONGとSO FABULOUS SO FIERCEもよく選曲していたと思う。

他には、BeForUのBRE∀K DOWN!も印象に残っている。交互に踏むと体が真横を向く、いわゆるアフロ踏みという配置が序盤に出てくるが、その踏み方を覚えたのがこの曲だった。これについても、初めて捻りを知ったときと同様に、「こうすれば交互に踏めるじゃん!」と自分で気付いて軽く感動した覚えがある。

MAXX UNLIMITEDというボス曲に対する姿勢は、前作のMAX 300のときと似たような感じだった。EXTRA STAGEでも一応挑戦してみるものの数十秒耐えるのが限界で、常駐後に改めて挑戦し、クリアした時点で結構満足していた。足10のいわゆる発狂譜面(今ではこの程度の譜面はもはや発狂とは呼ばないのかもしれないが)は難しいうえにしんどいので、正直あまり好き好んで選曲してはいなかった。自分が発狂譜面を楽しいと思い始めたのは、それらをちゃんと踏めるようになったSNやSN2の頃だったと思う(その頃にはFascination MAXXを筆頭にさらに難しい譜面がごろごろあったが)。


また、MAXで全削除された旧曲であるが、コナミオリジナル曲に関してはMAX2稼動前に公式サイトでアンケートを行い、復活希望の多かった上位30曲がMAX2にて復活した。それより下位の楽曲についても、隠し曲としてそこそこの数が復活した。このアンケートの結果は、要するにほぼNAOKI曲の人気ランキングに近いものなのだが、どんな曲が人気なのかなど何気にほとんど知らなかったため、なかなか興味深かった。なお、このランキングは現在もDDRMAXの公式サイトで見ることができる。


最後に、これは地味な話かもしれないが、MAX2のデモ画面において、筐体内スコアランキングが表示されているときに流れるBGMが非常に好きだった。MAX2のサントラでは、RANKINGというトラック名でDISC2に収録されている。聴いたことない人や覚えてない人もいるかもしれないので、一応YouTubeで探してきたが、この動画の7分20秒あたりから流れている曲がそれである。この曲にもう少し起承転結を付けて2分程度のサイズにアレンジしたものをDDRでプレイしたいと当時からずっと思っているのだが、DDRにNAOKI不在となった今、残念ながらこの夢が叶うことはなさそうである(世の中いろいろやな)。


続く。


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